poetoh

大島憲治の詩とエッセイ、フォト、自由律俳句を紹介。既刊詩集『イグナチオ教会通り風に吹かれる花のワルツ』(書肆山田) 『東京霊感紀行』(竜鱗堂) 『センチメンタルパニック』(私家版) 『荒野の夢』(蝶夢舎)『シャドーボクシング』(蝶夢舎)

暴露の完成       リヒター『ビルケナウ』考 

暴露の完成  リヒター『ビルケナウ』考   

 

 

 7月下旬、仙台駅を出て2時間、竹橋駅から地上へ出ると重い湿気にむっとした暑さ、さらに本降りの雨。久しぶりの東京は一面灰色の歓迎だ。お堀を越えた先には東京国立近代美術館があり、今回の上京の目的の一つ『ゲルハルト・リヒター展』が開かれている。平日、悪天候のなかでも会場はそこそこの入場者がいて、ほとんどは若い人たち。展示スペースに足を踏み入れると一瞬で別世界に切り替わる。なんともいえない空気感、鬱陶しい気分が一掃される。どこかの美術館で見ているだろう現代美術の巨匠リヒター、しかしその名でさえ初めて知るという無知さ加減。それゆえ未知の表現をこれから目の当たりにするというのでわくわくする。そして期待は予想をはるかに超えることになった。90歳となるリヒター、現役のアーティスト。この展覧会にも昨年夏に制作したドローイングが出品されている。今回の個展は、主に2000年以降の創作活動を概観する内容となっているが、その多様なアプローチ、多彩な技量、頭に入りきれない圧倒的な表現力に息を吞む、混乱させられる。一人のアーティストにより、これだけの発想が視覚化されたという驚き。2か月経ってもいまだリヒターという表現者に興奮させられている。


 連合軍の空爆により破壊しつくされた街、ドレスデンに生まれ、親族のなかにはナチスの優生思想のもとに虐待死させられた者もいれば、ナチの兵士で戦死した者もいる。リヒターの出自は悲劇の歴史に深くリンクしている。展覧会で最も注目された4枚の油彩画とそれを撮影したフォトバージョンの4対(つい)で構成された『ビルケナウ』。これはアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所で囚人により隠し撮りされた写真を絵に描き直し、その上に抽象画が描かれた2014年完成の大作だ。この作品には、キャンバス上に「表された」表現だけではない「行為としての」表現がある。隠し撮られたユダヤ人の死体の山の写真を手で描き直すという行為、描いた死体の山の絵を抽象画によって塗りつぶすという行為。一連の行為が『ビルケナウ』の作品性なのである。視覚化されたアウシュビッツの残虐性が人間になにをもたらすのだろう。衝撃に人は順応する。視覚イメージには、あってはならない非道でさえパターン化する危険が潜んでいる。悲惨が表面的な記号となりかねない。そこにリヒターの逡巡があったのではないだろうか。リヒターが半世紀もの長い間取り組み続けたホロコーストという課題。『ビルケナウ』に、キャプションや解釈がなければアブストラクト・ペインティングの一作品として位置づけられてしまう。『ビルケナウ』は、創作プロセスとその行為の伝達に拠らずには完成されない作品なのである。思考させ沈思させる作品として『ビルケナウ』は、鑑賞者の前に立つ。隠された絵の存在に気づかずに『ビルケナウ』の前から立ち去った者も少なくないだろう。


 時間は忘却を許し、歴史修正主義者らの妄言がはびこり、民族主義、人種差別があらゆる国で噴出する。これが世界の現実だ。歴史的な悲劇が今まさに覆い隠されようとしている。ピカソの『ゲルニカ』のように怒りや嘆きがキャンバス上に形象化された表現ではなく、『ビルケナウ』は〈あってはならなかったこと〉を意識的に隠すということで歴史をふたたび暴露する。この作品には歴史が覆い隠されていくことへの逆説的な警鐘が含有されているのではないだろうか。