poetoh

大島憲治の詩とエッセイ、フォト、自由律俳句を紹介。既刊詩集『イグナチオ教会通り風に吹かれる花のワルツ』(書肆山田) 『東京霊感紀行』(竜鱗堂) 『センチメンタルパニック』(私家版) 『荒野の夢』(蝶夢舎)『シャドーボクシング』(蝶夢舎)

詩歌の古巣


 神保町の田村書店といえば日欧の近・現代文学を領域とする古書、古本の老舗だ。日本の詩集の稀覯本がびっしりと棚に詰め込まれ、その背表紙を眺めているだけでも楽しい。
 学生時代はおどおどしながら店に入り、恐る恐る本を抜き出しその値段にも戦慄したものだ。ぱらぱらっと頁を捲れば粉々になりそうな堀口大学の薄っぺらな初版詩集が40,000円などと鉛筆書きされている。単なる読書家や学生などは相手ではないのだ。中古品を安く手に入れようという算段の者入るべからず、そんな古書店なのだ。
 同じ学部の友人と連れ立ってこの古書店に入ったことがあった。マラルメやらボードレール、ロートレアモン等々の翻訳本を友人が次々と引っ張り出しては音も高々とページを捲っていると、店の奥に陣を構えていたおばさんからきつい小言が発せられた。寸鉄人を刺す。おっかない古本屋だなと、二十そこそこの記憶に刻まれた。それでも神保町を通る機会があれば田村書店の詩集の棚を覗いた。
 いつだったかどうしても手に入れたい古い詩集があり店の主人に尋ねたことがあった。誰の詩集かはきれいに忘れている。憶えているのはその時の主人の木で鼻をくくった物言いだった。「うちにはいまないねえ、ま、あの手の本なら店先のワゴンあたりに出すもんだな」要するに価値の低い古本だと、ごちたのである。その時はどうしてもその詩人の詩が読みたく藁にでもすがる思いで尋ねたのだが、逆にその必死さが主人の価値観からすれば笑止千万だったのかもしれない。本は物としての価値はあるもののその本質は物ではない。主人は古書としての詩集には精通しているのだろうが、詩どころか知性にも啓けていないのだなと、あまり腹も立たなかった。
 先日、久しぶりに田村書店を覗いた。主人もおそらくその奥方であろうおっかないおばさんも健在だった。二人とも80を過ぎているだろうか。互いに労わりあっている言葉の掛け合いが耳に入る。と突然「こんにちわあ」と若い女性が頭を下げ下げ店に入ってくる。店頭に貼ってもらうためだろうか、映画のポスターを持っている。「またよろしくお願いしま~す」神保町シアターのスタッフ? 岩波ホール? 奥に陣取るかつてのおっかないおばさんが思いも寄らず優しく丁寧な応対をする。江戸っ子風のシャキッとした喋り。存外、いい方なのかもしれない。ただ先程から詩歌の棚の前で真っ赤な大型リュックを背負ったまま次から次と古書を取り出しては頁を捲る怪しい男から目を離さない。まとわりつくイタイ視線。この緊張感があっての田村書店。稀少な詩歌を手に取って触れることができる「博物館」「美術館」のごとく貴重な存在なのだ。
 欧文学の棚は通路があまりに狭くリュック男はウイリアム・ブレイクまで行きつけなかったものの目当てだった春山行夫、北園克衛の本を堪能。ありがたい店へ身の丈ほどの御礼をと永田耕衣『殺祖』を買い求める。サイン入り3,000円也、いい買い物となった。
 その永田耕衣の句から吉岡実が選句し自ら装幀した『耕衣百句』が最下段の棚にあった。見返しの遊びには生真面目そうな吉岡実の自筆サイン。献本だった。贈り先は、今年5月に亡くなった財部鳥子氏であった。


   秋の道我が精霊を二三置く 
       永田耕衣『殺祖』より

 

 

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