poetoh

大島憲治の詩とエッセイ、フォト、自由律俳句を紹介。既刊詩集『イグナチオ教会通り風に吹かれる花のワルツ』(書肆山田) 『東京霊感紀行』(竜鱗堂) 『センチメンタルパニック』(私家版) 『荒野の夢』(蝶夢舎)『シャドーボクシング』(蝶夢舎)

加藤典洋 詩集『僕の1000と一つの夜』

 

 昨年暮れ、加藤典洋さんと懇意にしておられたある作家の方から加藤さんの詩集を貸していただいた。タイトルは『僕の1000と一つの夜』。限定300部、170頁、43篇の作品が収められた第一詩集にして最後の詩集である。明日返却するのだが返すのが惜しまれる。これは手許に置いておくべき詩集なのである。

 詩を書く者が詩を読むということは言語表出というスタイルを吟味することに他ならない。書かれていることよりも、いかに書かれたかが重要なのだ。内容よりも表出が大事だということだ。詩を書こうとする者は自我が強い、自我が書かれてしまってはいけないのだ。自我という内容では困るのだ。自我とはたいがい狭く偏っている。とりわけ詩人を名乗る者の自我は。ランボーやリルケなど世紀に数名現れる天才は自我もヘッタクレもないが、市井の詩人らは自我をどう捌き調理するかに心砕いているのだ。手っ取り早く安直なのは自我を見つからぬようにすること、つまり格闘を放棄して無意味に沈殿することだ。言葉を磨くなどというのは欺瞞で、詩人の言葉は自己と他者の間でいつも濁り続けている。それが現代詩という困りものの姿かもしれない。

 けれど書かれたものが「いかに書かれたか」という吟味をあっさり通り抜け読む者に刺さることが起こる。加藤典洋の詩のように。言葉による詩ではなく存在による詩。無限定という不思議な〈ある枠〉に生と言葉がひとつとなってみごとに流れ込む出来事が起こる。詩が生まれる。それは詩によって何かを表現しようとしたわけではなく、加藤さんのなかの詩としか呼べない世界が明晰な言葉により切り抜かれたということ。それらが切り抜かれるのを待っていたということだ。悲しさも不可解さも澄み切っている。わたしたちが開いたページは、たとえ〈1000と一つの夜〉であっても明るい。この明度は安らぎであり詩の不変の希望でもある。多くの詩人にこの詩集は愛されるだろう。 ただ詩のスタイルを持ってのみ評価する詩人たちにはこの詩集の良さは黙殺されるかもしれない。わたしはこの「詩の原風景」ともいえる宝物のような詩篇を読む。

 どれも光りを宿す詩だが、「体育館」という詩を紹介したい。どうでもいい風景の記憶が愛おしい世界へと高められる、いや、どうでもいい風景に潜んでいた愛おしい世界を遠い過去から連れてくる。この詩集のなかでもっとも繊細な作品だとわたしは思う。

 

 

 

 体育館           

              加藤典洋

 


建物の西側は

しめっていた

僕はあまりそこにはいかなかった

 


陽の光があたらないうえに

すぐに金網があって

何の使いみちもなかった

 


最初に

体育館を建てたときから

そうだった

誰もそれでおかしいとは思わなかったのだ

 


それでそこには

いろんなものが落ちていた

絵本の色の褪せたページみたいなものとか

空のペットボトルとかタバコの空き箱とか

ほかに

名前のわからない草も生えていた

 


昔は不良仲間が集ったらしい

でもいまとなっては

誰もそこにいかなかった

行く必要がなかったからだ

 


町にゲームセンターができたいま

だれがいったい

日の差さない

体育館の裏側に

いくものか

 


体育館に西側があることすら

もう誰もおぼえていなかった

 


風が吹くと

名前のない草が

いっせいに動くのだった