poetoh

大島憲治の詩とエッセイ、フォト、自由律俳句を紹介。既刊詩集『イグナチオ教会通り風に吹かれる花のワルツ』(書肆山田) 『東京霊感紀行』(竜鱗堂) 『センチメンタルパニック』(私家版) 『荒野の夢』(蝶夢舎)『シャドーボクシング』(蝶夢舎)

2017-2020ヨコハマトリエンナーレ 亀裂を巡る断章

 3年前の「2017ヨコハマトリエンナーレ」で一番印象に残った 作品は、アイスランド出身のトラグナル・キャルタンソンの映像作品『The Visitors』だった。7人の演奏家がそれぞれ一つの部屋に隔離されたかたちで一つの楽曲をヘッドフォン通じて合奏する。演奏家の一人ひとりが一つひとつのスクリーンで映し出される。映像では孤立しているが楽曲で繋がっているということを見せられる。 図らずも現在のソーシャルディスタンスを暗示するかのような仕掛 けだ(ウィーンフィルはじめとする音楽家たちのリモート演奏のように)。鑑賞者は楽曲を聴きながら会場内に配置されたそれら演奏者を映し出したスクリーンを眺め回遊する。エンディングは演奏家 たちが部屋から出て合流する。シャンパンが開けられる。 さらに館から庭へと繰り出し、芝の広がる丘へ、まさに大団円となり歌いながらフェイドアウトしていく。30分に亘る作品だったが鑑賞者のほとんどは会場に留まり、映し出される光景と音楽に浸っ た。わたしたちはなんとも言えない一体感を味わうこととなった。ささやかだったかもしれないがわたしたちは幸福なひとときを過ご した。そこに居合わせた人を〈わたしたち〉と呼べるような時間を共有したのだった。キャルタンソンは、わたしたちの希求しているものを掬い取り、彼なりのフォーマットで表現したのだろうか。わたしたちが希求していること、それは憎しむことではなく、争うこ とでもない、それは確かだということをこの作品は気づかせてくれた。


 さて「2020ヨコハマトリエンナーレ」。今回も多様な作品が展 示されていたが、もはや斬新さやダイナミズムという要素だけでは惹きつけられない、いや納得できない、そうした時間の内に入ってしまったのを知る。2017-2020の間の亀裂。それは新型ウ イルスによるパンデミックであるし、すでに後戻り出来ない状況までに深刻化した気候変動、大規模な自然災害という人間の力ではどうすることもできない事態であり、絶望的な光景を晒すプラスチックごみによる海洋汚染であり、いまだになんらコントロール出来ない状態にある福島原発であり、核兵器廃絶の放棄、等々複数かつ重い楔によるものだ。日本人には巨大地震に大津波、 富士山大噴火といういつでも起こり得るクライシスがある。壊滅的なイメージがわれわれのなかでこれほど強められた時代はなかったのではないだろうか。どこを見ても過酷な未来が待ち構えている。 そしてそれは始まりだした。
 今回のトリエンナーレで最もインパクトがあり、忘れえぬ作品となったのは、韓国のパク・チャンキョンによる映像作品《 遅れてきた菩薩》(スティル)だ。予備知識なくキャプションも読まずに座席についたがそのまま約1時間に亘り特異な映像世界に釘付けにされた。日本の原発施設が「普賢」「文珠」 という菩薩の名をつけていることから想起、構想されたこの作品。 レントゲン写真のような判然としない映像が不安感、焦燥感を掻き立て、見えない放射能という存在を視覚に訴えてくる。仏陀の臨終 というモチーフはアバンギャルドな映像に物語性という奥行を加えている。この秀逸な作品がもたらした功績は原発、核兵器という人 類最大の負の遺産をこれまでにない視点で再表出させたことだ。この作品を観たあとでは他の作品が商業施設のディスプレイや遊技物 に見えてしまうのだった。
「自由に表現する」権利の行使がアートの本領であった牧歌的な時代はすでに終わっている。

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