poetoh

大島憲治の詩とエッセイ、フォト、自由律俳句を紹介。既刊詩集『イグナチオ教会通り風に吹かれる花のワルツ』(書肆山田) 『東京霊感紀行』(竜鱗堂) 『センチメンタルパニック』(私家版) 『荒野の夢』(蝶夢舎)『シャドーボクシング』(蝶夢舎)

少年の終わりから       タージオその後 

 

 『ベニスに死す』は、わたしにとって映画ベスト3に入る作品だ。この映画のなにが魅力かといえばこれはもうタージョ役のビョルン・アンドレセンの美しさにある。その虜となったダーク・ボガード演ずるアッシェンバッハの錯乱状態と死にざま、これもこの映画が放つ光りである。いやそこにこの作品の主調がある。そして繰り返し流れるマーラーの交響曲第5番第4楽章は神がかったタージョの美しさと融けあってこの映画の甘美さを極める。監督はルキノ・ビスコンティ。完璧主義者であり、『夏の嵐』『家族の肖像』等々の重厚な作品を残し映画史上にその名を刻む。

 今年2月、拠ない事情でわたしは46年前に離れた故郷仙台に一人居を移すことになった。振り返る歳月を持つ齢となったにも関わらず人生の大きな転換を強いて途方に暮れていた。そんなときタージオ役で世を席巻したビョルンのその後を伝えるドキュメンタリー映画『世界で一番美しい少年』を観たのだった。衝撃的な光景から映画は始まる。油まみれのガスコンロ、汚れた食器類が重なったシンク、ゴキブリの巣のような身の毛もよだつキッチンがスクリーンに広がる。狂人でも暮らしているのかという荒廃したアパートの一室。そこにいるのは65歳となったビヨルンその人なのだった。怪僧のような風貌、背中まで垂らした長い髪。スター凋落の姿が、家賃も払えぬ老いた落伍者が画面いっぱいに晒される。あの清らかな美少年と同じ人物とだれが思うだろう。家主に詰め寄られ、若い恋人に叱責されおろおろする老いた男。しかし老醜さはない。諍いがあっても声を荒げることなく、根に穏やかさがある。世界の片隅に追いやられた無力な聖人のようだ。同じ時期、数十年振りに映画出演した『ミッドサマー』。ビョルンはカルト的共同体の一老人を演じる。15歳のタージオから半世紀を経て65歳の奇異な俳優が羽化したのだろうか、その存在感は否応にも目に焼きつく。

 『世界で一番美しい少年』のなかで何度も出てくる『ベニスに死す』のシーンとその舞台裏。息をのむほど美しかったタージオに段々と違和感を覚えていく。監督の絶対的な力でコントロールされたタージオの表情や動きに気持ちが冷めていく。お眼鏡にかかる美少年の発掘に執念を激らせたビスコンティ。少年らのオーディションを記録した異様な映像には吐き気がした。服を脱ぐようビスコンティは命じる。呆気にとられるビョルン。明らかに性的虐待である。彼がゲイであることとは関係なく、この巨匠が絶対的権力者として少年たちを集め物色し、もののように扱うその神経と態度にわたしは嫌悪感を催した。この映画と前後して『Allen v. Farrow』が公開された。ウディ・アレンの当時7歳の養女に対する性的虐待容疑を追ったドキュメンタリー番組だ。これを観て20代から愛してきたウディの作品すべてが灰燼に帰した思いとなった。養女への性犯罪をもみ消そうと、金、コネ、力を駆使し、かつての妻ミア・ファローと被害者である養女を追い詰める。彼の生んだドラマは気弱で繊細な愛すべきキャラクターが要であり魅力であった。どの作品にも愛のほろ苦さと暖かさがあった。しかし、現実のウディは黒を白にもできる冷酷な権力者でもあった。映画監督は采配し決断する存在だが他者を弄ぶ権力者ではないはずだ。ましてやその地位と知名度でもって逸脱行為を犯すとなれば作品さえ穢してしまう。

 老いという現実と虚構の舞台裏がタージオの美しさを幻のように消し去った。しかし、人生を狂わされ辛酸を舐めてきた65歳のビョルンという存在がわたしのなかで生き始める。タージオという虚構の美から遠く離れ、運命の残酷さを凌いできた生身のビョルンその人が。そこには悲しさがあり、それを静かに受け入れてきた美しさがある。『ベニスに死す』よりもタージョのその後を捉えたこの映画をわたしは愛する。1歳違いのビョルン、わたしに共通するのは年齢だけだが、晩年期に入りつついまだ波乱を含んだ人生へのシンパシーもある。落伍者ではなくまだ歩き続ける姿に。