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大島憲治の詩とエッセイ、フォト、自由律俳句を紹介。既刊詩集『イグナチオ教会通り風に吹かれる花のワルツ』(書肆山田) 『東京霊感紀行』(竜鱗堂) 『センチメンタルパニック』(私家版) 『荒野の夢』(蝶夢舎)『シャドーボクシング』(蝶夢舎)

石内都「肌理と写真」展  ー 記憶の澱、胸を衝く意念

石内都「肌理と写真」展
 ー 記憶の澱、胸を衝く意念

 

ひと月程前、横浜美術館で開かれている石内都「肌理と写真」展へ行ってきた。何か記さねばと思いながら日は過ぎてしまった。ひと月経っても、いまだにあれらの写真が心の一隅を占めている。

荒い粒子のモノクロームによって異物のように現出させられた横須賀や横浜の街、廃館、海。光景や風景という移り行く瞬間を捉えるということよりも、石内写真は対象を印画紙の上へ現象化させてみせるのだ。風景の模倣ではなく、対象を光と影で創造してみせたのだ。なにかを足すことなく、加えることもなく。

石内都を観に行く少し前、ユージン・スミスの写真展へ行ったのだが、記憶に深く刻まれたのは、あの著名な作品「楽園へのあゆみ」のオリジナルプリントだけだ。二人の写真家を比較するつもりはないが、石内都の写真には「撮る」という意思だけではなく、平面上になにかを新に生み出す意念があると感じる。その意念とも言えるものが、石内写真の放つ衝撃となっている。ユージン・スミスの写真が劣っているということではなく、石内都の写真には、記憶に澱を残すような次元があるのだ。

老人の肉体、火傷をした女性の裸体が被写体となる。足、指、背中、爪、乳房、皮膚が晒される。そこには、われわれが知る肉体ではないものが映し出されている。物質にも生命にも収まらない、精神などという曖昧な含意でもない、形象そのものが、あたかも光で創造されたように映しだされる。美しいとか醜いという次元ではない厳然としたものが。

<ひろしま>というシリーズでは、被爆し亡くなった若い女性、少女、幼女の衣類が撮影されている。被爆者の遺品は、その悲惨さを伝える歴史の資料として保存されているものだ。われわれはそれらに博物学的に置かれてしまった破壊と死の結果を見る。しかし、石内都の〈ひろしま〉には、破壊と死の前にあったものが現されているのだ。それは彼女たちの息づきであり、温もりであり、匂いでさえある。焼け焦げ、焼けただれ、破られ、引きちぎられている服が、その服を着ていた若い女たちの生を伝えてくる。なぜ生が染み入るように伝わってくるのだろう。ぼろぼろとなった布を心をこめて開き、整え、光を与えた者がいたからだ。人という人を微塵としたあの閃光に抗い、石内都が祈るように、たおやかに照らし出したのだ。思ったよりも上質な生地が、しゃれた色柄が、手の込んだパターンが、可愛らしいボタンが、女ならでは衣が生き返る。72年前、たしかに生きていた彼女たちの生が消え入るように甦るのである。これほど胸を衝かれた写真はない。(大島憲治)