poetoh

大島憲治の詩とエッセイ、フォト、自由律俳句を紹介。既刊詩集『イグナチオ教会通り風に吹かれる花のワルツ』(書肆山田) 『東京霊感紀行』(竜鱗堂) 『センチメンタルパニック』(私家版) 『荒野の夢』(蝶夢舎)『シャドーボクシング』(蝶夢舎)

山頂

山 頂 

阿夫利神社奥宮へ向かって
中国人が呪文を唱えてる
無事、無事、無事、人生無事
擦過する日本語が交じって
吐息がたなびく

ぼくは透視する
冷たいぬかるみを踏み込んできた登山靴
の中のかわいそうな小指たちを
ぼくはキスをする
太陽の前に並んだ霜柱 その
むき出しのエイリアンの白い歯に

バーナーで煮込んだカレーうどん
耳の鼓膜がガツガツと食べ
髪を六角形に折られながら
ぼくは踊る風をすすりあげる
(なんて冷たい北西なんだ)
ご神木から樹氷がばらまかれ
歓声を上げるわけにはいかないので
ぼくは涙をひと粒もこぼさぬように
大事に泣く
一人は花なり
明らかな花の無言なり

隣のぶっといテーブルでは
仲良し中年男たちが
山で山の話に盛り上がっている
(ぼくの耳石も笑い合う)

這い上がってきた白いガス
色の水彩になる登山者
さあ、出発だ
今頃、みたけ台公園に集まる犬たちは
雲に埋められた大山へ頭を向け
尻尾をふっていることだろう

便器の匂いを胸いっぱいに吸って
小便を済ませ
糞尿を封じる鉄蓋を踏んで
下山ルートへ向かおうとした時
北面の展望台を過ぎようとしたその時
ぼくは若い女をみた
二十歳そこそこの毛糸の帽子が似合う
ホットミルクのような白い頬をした子だった
帽子もジーパンもマウンテンパーカーも
手袋もマフもその子が大好きで
みんなしてぴったりとくっついていた
生地から色から辺りの大気からも
彼女は愛されているのだった
この輪郭はきっと
存在の木洩れ日なのだろう

20代の終わり頃
有楽町西武のエスカレーターで起きた
生涯で一番短い恋
思い当たるのはあの時のあの瞬間
起きなかった奇跡が
婦人服売場へ斜めに沈んでいった
(追いかけない道を選び、
つまり永遠を作ったのだった)
彼女の形象は
ひとかけらも残らず飛んでいったが
その輪郭は金のリングとなって
心の宙を今も旅している
成就したならば
世界がお終いになるはずの恋だった
瞳と瞳が何故あの時、融け合ったのか
喜びと悲しみがどうやって一体となったのか
この世は教えてはくれない

山頂はガスから解かれる
白い頬の娘は初老の瞳を
ダイヤモンドに変え
通り過ぎていく そして
若いやせっぽちの男に寄り添う
眼下に広がり、遠くで結実する
都心の甘い像を眺めるふたり
ふたりの沈黙がぼくの横目を清める
ガスに巻かれ始める大山山頂
イタツミ尾根方面へ歩き出す若者の穏やか目
そのあとにつく娘の白い頬
黙したままふたつのシルエットが去っていくぼくは長い旅の始まりを目撃したかもしれない
ぼくは祈った
ふたりの未来が恐ろしい人間たちに決して気づかれないようにと

不動尻方面へと下る
なんでもない道だが一歩踏み外せば
滑落死と相成る箇所もある
と、脇を飛ぶように通り過ぎていく者がいる
奥宮で呪文を唱えていた中国人だ
ガスの中を仙人の如く駈け下る
ぼくは唱える
ブジブジブジ ジンセイブジ
仙人は消え、あたりはまっ白だ
われわれにどんな世界が待ち構えているんだろう