重いくびきから放たれる言葉の旋律
谷川俊太郎という詩人を詩人足らしめているのは、谷川さんという人間をつかんでいる幸福感にあるのではないだろうか。幸福ではなく幸福感だ。
しあわせな環境にいても幸福を感じられない人はざらにいる。はたから見て不幸な境遇と思っても全くそんなことはなく、しあわせだと言う人もいる。人や世の中、人生を否定的にとらない者だけが幸福感という感度を授けられる。
ならば谷川さんは、世界をポジティブにとらえているのかと言えば全然そんなことはない。世界は不可解な塊であり、謎と不自由に塞がれていることを手を替え品を替え表明する。そして、残酷な世界があっても、それを打ち消す世界を向き合わせる。ささやかな日常のなかの瞬間に依って、怖ろしい世界と対峙させてみせる。谷川さんの詩を読んで暗い気持ちにはならない。いやな思いにはならない。わからないと悩まされることもあまりない。
谷川詩には、悲しみや憎しみをうたっても、風のように抜けていくものがある。小林秀雄がモーツァルトの音楽を「かなしみは疾走する」と言ったが、谷川詩にもそれと似た、悲しみが走り抜けていくものがある。静かに珈琲を口に運んでいるあいだにも。
谷川さんには『モーツァルトを聴く人』という詩集があるが、谷川俊太郎の詩を読むということは、モーツァルトを聴くことに似ている。現実という重いくびきから解き放してくれる言葉の旋律というのだろうか。幻想を書いてるわけでも虚構を騙っているわけではない。それもまた現実から流れだす。
朝日新聞連載<谷川俊太郎ーどこからか言葉が>(2018年1月31日)
「もういーかい」を読み